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ま え が き

「さあ、起こしてくれ。上衣を出してくれ。私は行かねばならない。みんなが待っている」
主人は、床のなかで、そう私に叫びつづけます。
自分の体が自由にならないのに、気持だけは、明日に迫った関西講演に、早や心は飛んでいるようでした。
私は、黙って主人の顔を凝視(みつめ)ていますと、
「なにを愚図愚図している。はやくしないか。上衣を持って来てくれ」
そういって、自分の力で床から起き上がろうとします。
しかし、主人は、もう何日も物を食べていません。それどころか、山形講演ですっかり体を使い果たし、そのうえ、つい一日前、ある方が八起ビルに訪ねてくるというので、わざわざ出かけて行き、夜の十時すぎまで話し合い、その無理がたたったのでしょう。両足にむくみが出るほど体に異常をきたし、立っていることさえできず、玄関に入るなり倒れてしまったのです。
もともと主人は、体には自信があったようです。病気らしい病気はしたことがないので、体が疲弊し切っていても、気力だけは少しも衰えず、講演会に行くといってきかないのです。
今にして思えば、あのときの主人は、家族の者の理解を越えたある使命感だけに己れの魂を燃焼させて生きていたと思います。
それから十日余りして主人は昇天しましたが、主人のこうした行動なり、考え方は、いったいどこからきていたのでしょう。
それは、主人の著書『心の発見』(神理篇)三十一ページの〃心中の魔王〃の冒頭に「その後、一九五三年に、私は許婚者の女性に、自分の将来について四十八歳までのことを予言し・・・・・・」とありますように、四十八歳までに、やるべきことをやっておきたいの一念だけだったと思います。
四十八歳以後のこの世の計画は、すべて白紙であり、自分のいのちはそれまでしかないと知っていたので、いのちのあるかぎり、講演をつづけたかったのでしょう。
主人の行動を支えるもう一つのバックボーンであり、信念は、人びとに人間の真実を知ってもらいたい、ということだったと思います。
人間は、どこから来てどこへ行くのか。死とは何か、生きるとはどういうことか、ということを、一人でも多くの方に理解して欲しい、ということでした。
主人の考え方は、十余冊の著作のなかに述べられておりますが、人間は、肉体ではなく魂であり、そのため心を失うと、争いや苦しみが襲ってくると訴えてきたわけです。
もちろん、人間にとって肉体は必要です。肉体のない人間は、この世に存在しませんから。
しかし、ものの考え方が、肉体に片寄るから、苦しみ、悲しみが、つきないわけでしょう。
仏教の言葉に、諸行無常というのがあります。この意味は、この世は、時々刻々変化し、一つとして永久不変のものはない。にもかかわらず、人は、その無常を有常と見て、事を構えてしまう。そこに悲劇があり、苦悩があると思います。
永久不変の真実は、人の魂であり、生き通しの心です。これこそが有常の姿なのです。
ですから、この世の生活は、物事が相対的にできていますから、たがいに助け合い、補い合って、苦悩をつくらない生活をしよう、といっているのです。
主人の訴えてきたことを詰めていうと、以上のように要約されると思いますが、本書は、これらのことを、過去七年間にわたって毎日書きつづけて来た、いわば時事評論です。
人間生活の在り方を、いろいろな角度からながめ、訴えてきた小論です。
我田引水になるかも知れませんが、本書を読んでいますと、高橋信次は、今もなお、これを書きつづけ、私たちに訴えているかのようです、そして、人間らしい調和の生活を一日も早く実現してほしいと、叫んでいるかのようです。
息を引きとるまで、真実に生きようとつとめた高橋信次の小論集によって、一人でも多くの方が開眼され、明るい、楽しい、そして正しい生活に立ち直っていただくよう希望いたします。
読者のみなさまのなかには、高橋信次の本は、もう世に出ないと思われた方がおありだったと思いますが、本書によって、今なお元気よく生きつづける高橋信次のけいがい謦咳を感じていただくならば、私の幸せ、これに過ぎるものはございません。

一九七二年十月
高 橋 一 栄
posted by ゆき at 19:23 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

輪 廻

仏教学者の間では、如来となって大悟した者は二度と再び地上に生まれ出ることがないと考えられている。果たしてそういうものかどうか。こうした見方は一つには地上の生活は苦の世界であり、カルマ(業)の虜となるために、如来の悟りを得ないと、カルマが手枷足枷となって、それが輪廻をくりかえすとみるからであろう。
輪廻というものは万生万物に永遠に付いてまわるものである。生命も物質も、いずれも神の光によって創られており、神の光は永遠に消滅しないものであるからだ。これをもっとわかり易くいうならば、生命は休みなく運動を続けており、その運動は工ネルギー不滅の法則の通りつづいているからである。
物質としてこの地上にあったものは、やがて、エネルギーと化し、天空や地下の目に見えないエネルギーに同化してしまう。同化したとしても、形を失なったその物質は無になったかというとそうではなく、物質として蘇えるまでエネルギーとして、あるいは意識として温存されているのである。
人の魂もこれと同様に、こうした大自然のルールにしたがって、転生を輪廻している。すべては円運動を通して、物質も生命も輪廻を重ねている。
ただ、魂によっては輪廻のテンポは遅く、あの世実在界に永くとどまる生命もあるが、それはいろいろな理由からそうなるので、通常は悟ったから、悟らないからということはない。
人が悟るとカルマからおんり遠離する。遠離するとはカルマに心が動かされないということだ。カルマというものは過去世と今世のものが混合されてその人を動かして行くが、それは、悟りとは関係なく、ある期間、その運動を停止することがない。
それはイエスが十字架の人となり、苦渋を味わったが、十字架はイエスのカルマがそうさせたといえよう。しかし、イエスはすでに悟っていたので、十字架の苦痛を乗り越え心を動かされることはなかった。復活がそのことを証明していよう。
このように、ものにはすべて慣性の法則が働き、カルマ自体循環の運動をつづけているので、本人の意思にかかわらず動くものだからである。しかし、正しい意思が内在され、神の光が表われるようになると、カルマの運動は急速に停止をはじめる。・・・・・・といってカルマの運動が停止されても、魂の輪廻は停止することはないのである。これは大自然の法則であるからだ。
私たちは学者の推測にとらわれてはならない。
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労使協調

インフレと不況という相反した二重苦の中で、誰しも不安と見通し難のため、戸惑っていると思う。いったいこれから先、どうなるのだろう。景気はよくなるのか、悪くなるのか。悪くなったらどうしよう。よくなるとすれば、いつ頃よくなるのか。誰しも知りたいところであろう。しかし、いったい、なにがこうした事態を招いたのか。自分とはかかわりない他人が、こうした事態を待ち込んできたものなのか――。
経済は単独では成り立たない。経済ほど相互依存の強いものはない。インフレの悩みはなにも西側だけではなく、東側も同じだ。ただ東側は国家の強力な統制下にあるので、西側から輪入したインフレを、国の財政が背負っているだけである。国の財政とは国民の金である。西側は、これが個々の企業に直接ひびき、市場が自由なので、すぐさま価格にハネ返っているだけである。
しかし、その苦しみは独り我が国のみならず、アメリカも西独も、そして束欧諸国も同じだ。アラブ諸国だけが利益を独り占めするわけにはゆかない。アラブだけが利益を得、他の世界諸国が不利益をこうむるという昨代ではないからである。つまり、経済は単独では成りたたないし、勝者敗者が生ずる仕組みは、世界が小さくなった今日では、もはや通らなくなりつつあるからである。ことに我が国の場合は、世界経済の中軸を占めており、小さな枠の中で自己保存にひたることは許されなくなってきている。
ここで大事なことはなにかといえば、労使の協調である。限られたパイを互いに、より多く分捕ろうとすると争いになる。争いは破壊につながる、企業は潰れ、労働者は職場を失うことになる。我が国がこういう状態になれば、世界経済にも大きく影響してゆこう。
個々の労使協調が、世界経済にどうつながるかといえば、双方が協調し企業が安定してくれば、やがて価格も安定し、需要と供給がノーマルになってくる。反対に、争いが激しくなり、企業倒産すれば、失業者があふれ、需要は減退して、輪出国の産業も衰微してこよう。したがって、まずもって労使の協調である。それには双方が裸になって、譲るべきところはゆずり、話し合うことだ。
今回の危機(石油ショック)を招いたものはなにかというと、その根本は経済主体のものの考え方にある。経済は人間生活の手段であって、目的ではない。我々の目的は、仕事を通して、その魂をより豊かに、広く磨くことであり、そうして、その心を地上に反映させることにある。すなわち、他を生かす愛の仏国土をつくることである。現在の危機は、その反作用というべきであろう。
posted by ゆき at 19:21 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

組織と個人

組織の中でも会社組織は、今日もっとも強力、かつ巨大なものの一つである。大部分の人たちは、どこかの会社に所属し、そこで仕事をする。その会社の盛衰はそのまま家庭生活の盛衰につながってくる。したがって会社の利益は、個人の利益につながり、会社の目的は個人の目的につながるのが当然であろう。
ここであげる問題点は、会社の目的が正法にそぐわない、つまり、中道にそわないために、働く者の悩みをどう解決するかということである。具体的にいうと、会社の経営者は自己中心、利益中心であるのに対して、そうした会社で働く者が正法を信じ、正法を仕事の上に活かしたいと思っても活かせないという悩みである。
つい一、二年前の経済界にあっては、こうした悩みが非常に多かったと思う。ところが石油ショックを境にして、自己中心的な会社経営にさまざまな問題が浮彫りにされ、利益のためには手段を選ばぬという経営は、次第に行き詰まってきたようである。産業中心の政治目標にしても、今や大きな曲り角に立っている。
個人の目的と会社の目的とが必ずしも一致しないことは、今日のような自由社会にあっては当起然こってこようが、しかし、作用・反作用の法則というものは、前述のようにどんな場合にも働いてくるものなので、目的が異なるからといって仕事そのものを加減してはならないだろう。
会社は利益を目的として動いており、会社で働く者は、その環境に感謝し、報恩の行為が必要であろう。また、労使の感情を除き、対話をもととした調和された環境をつくって行くことに意をつくすことも当然である。問題はその利益をどう処理してゆくかが、その会社の経営なり、従業員の考え方にかかってくる。つまり、正法に適っているかどうかである。
個人の悩みは大低、肉体的不調和と生活苦、環境に対する不満、責任の転嫁、逃避などが多い、会社と個人の目的はしばしば一致しないことが起こってこようが、しかし、だからといって、その組織を離れては家庭を破壊し、自分を失うことにもなってこよう。
組織は地上生活にとって欠くことのできないものであり、組織は肉体とみればよいのである。肉体を否定すれば人間を否定することにもなるので、要は、これにふり回されず、そうした環境の中で己の魂をどれほど磨いてゆくかが修行の大きな目的である。
自分が変わると周囲が変わってくるものであり、環境が変わる必要がおこれば変わらざるを得なくなるものである。どんな場合にも、まず自分をつくることに意をつくすことが正法のかなめ要といえよう。
posted by ゆき at 19:21 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天 職

人は誰しも才能と職業、あるいは趣味と職業が一致したら、人生がどんなに仕合わせかと考えたことがあるだろう。ことに男子の場合は、職業の選択には若い時分は迷ったり、悩んだりするものである。
人生の生きがいというものは、仕事や職業から切り離しては、ふつうでは容易に考えられないし、人生から仕事を外したり、職業を持たない人間などはありえないのだから、なおさらである。また人間は職業を通して、仕事を通して、己れの魂を磨いていくものであれば、職業の選択、仕事の内容によっては、その人を明るくもし、暗くもしていくだろう。
学生や若い人たちの相談といえば、たいてい仕事の問題、職業選択である。自分はどの道に向いているか、どんな才能を持っているか。過去世においてどんな職業を得、仕事をしてきたか。できたら、過去世で学んできた職業、仕事を今生でも持つことができれば、まず間違いなく失望や落胆の人生を歩まなくても済むだろうと考える。まさしく、その通りにちがいない。過去世においてそうした経験を積んでいれば、その経験なり、才能を表面に出すことができるからだ。
しかしながら不思議なことに、過去世で経験した仕事というものは、どんな人でも自然と心に浮かんできて、こうしたことをしたい、ああもしたいと考えられてくるものなのだ。全然無縁の事柄というものは心に浮かばないものである。したがって、現在、職業の選択にこうした点で迷っているとすれば、今、考えられる範囲の職業を選
び、仕事に打ち込んでみることである。
もしちがった方向に進んでいるとすれば、その職業は永くはつづかないだろうし、転換のチャンスがやがて訪れてくる。また、才能にしても、その仕事に打ちこむことによって生まれてくるものだし、そうすることによって、守護・指導霊の応援も得られるのである。
天職といわれる職業、あるいは仕事の内容というものは、職業や仕事そのものをいうのではなく、その仕事に真に自分が打ち込めるか、どうかにかかっている。人がうらやむ職業や地位に就いたとしても、その人が真に心の底から、その仕事に励むことができなければ、それは天職とはいえなくなる。
職業に貴賤はないのだ。いやしい職業というものはないのだ。仕事は魂の向上のためにする。そしてそれは同時に愛の行為に通じるもの。この点を誤解し、才能のみを追って職業選択をすると老いてから後悔しよう。
まず、与えられた、あるいは選択した仕事に打ち込んでみることである。嫌いだった職業でも好きになることができ、天職として世の中に立派に貢献することになってくる。
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食糧問題

異常気象、食糧危機、人口問題、この三つは相互に関連し合って動いているが、これについて、さまざまな見方がなされているので取り上げてみたい。
まず気象については、太陽、月、地球の自転公転によって、その条件の基礎がつくられている。だがしかし、寒波、風、雨、晴天のいずれかの一方に片寄ると地上の営みに狂いが出てくる。
かって地上に人類が住む以前は、火山爆発と雨のくりかえしがつづき、氷河時代を何度も現出した。これは火山爆発の降灰が天空に舞い上がり、層をつくり、太陽の熱光を遮断したため地上の気温を下げたからである。
今日、冷害や干バツが各地におこっている。原因の一つは熱消費の増大であり、煤煙、排気ガスの塵が天空にのぼり、層をつくりはじめているからである。もう一つは地上に住む人類の想念行為によって、地軸の位置、自転のリズムを変化させていることもあろう。
このように気象の基礎条件は少しも変わらないが、地上に住む人類の想念行為が人口の増大に比例して、さまざまな異常気象を生み出している。アフリカの大干バツ、ソ連、中国、インドなどの食糧不足。これはいったいなにがそうさせたかといえば、それは前述の説明を理解されれば自ずと明らかであろう。
気象は天然の産物であり、人間の生活行為と直接無関係と思われるが、例を今日の公害をみれば、気象も人為的に左右されることは説明を要しないと思う。
人口問題は、食糧生産と密接に結びつき、地球は満員という見方もあるが、しかしまだその余力は十分ある。問題は現時点の人びとの意識構造(政治理念、民族意識、人種差別、経済の考え方など)に問題があり、バランスを欠いているので、歪みが生じているのだ。一方の国は食糧があり余り、他の国では餓死者が発生すること自体、調和された地上とはいえないだろう。
こうしたアンバランスがなくなり、天然の気象条件に適した方法で食糧生産が行なわれ、技術開発を平均的に進めていけば、地球の人口許容量はまだまだひろげられる。
異常気象、食糧危機、人口問題は地球人類の責任である。
それぞれの責任において調和された生活、つまり人類はみな兄弟という人間の原点に立って処理していくならば、この問題は明日にも解決していくであろう。しかし、今のままの状態が続けば、食糧危機を発生せしめ、問題を深めていくことになりかねない。
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出家と悟り

一部の間に出家に対する渇望のようなものがあって、インド時代と現代とを比較する向きが多いようである。二千五百有余年前は仕事や家庭を捨てて出家したのに、現代は在家の修行であるため、容易に自分が悟れぬということらしい。
たしかに在家の場合は家庭や社会に対する責任や義務の問題が心をしばり、出家は身軽で自分だけのことを考えれば済むからであろう。ことに人間は環境に流される性質を持っているので、心をしばるもろもろのわずらわしさから逃れたいと誰しも思う。
だが、よく考えて欲しい。人間は社会的生物なのだ。社会を離れて人間の生活はなく、だいいちそれでは生きる資格すらないだろう。
悟るということは終局的には個人と全体とのつながりを知り、それにもとづいた生活行為をいうのだ。社会生活からはみ出して個と全の関係を知ったとしても、それは本物とはいえない。その関係を理解し社会生活の中で生かさなければなんにもならないからだ。
インド時代の出家にはさまざまな理由があった。まず当時は戦乱の時代で今日のように治安が保たれた家庭生活を営むことがむずかしかった。この点、武士も商人も農民についてもみな同じで、いつその生活を追われ一家離散の憂き目をみるか計り知れなかった。
このため家庭を持つよりは独身で、一般生活よりは出家によって身を守り安らぎを求めた。しかも当時はサロモン、サマナー(僧)に対する畏敬の念が強かった。それは僧は平和の使いであり、民衆に幸福をもたらすという思想があったので、カースト制度の頂点に僧の位置がおかれていたのである。
 山に入れば果物や野草が食を満たしてくれたし、世俗の願望を絶つ者はみな出家し、サマナーとして厳しい修行に身を投じていったわけである。
こうしたことから出家は男子のみとはかぎらず、女子も出家した、釈迦教団が女子の出家を認めたのも、こうした社会的事情があったからである。
出家の目的は己れ一個の悟りだけではない。在家の人たちに積極的にその神理を伝えてゆくことにあった。決して山にこもって俗世間から隔離し、仙人の生活に終始したわけではない。釈迦教団にあっては伝道が大きな仕事であった。
今日の時代は前述のように出家の必要はないし、家庭や社会生活の中で己れを悟り調和した世界をつくってゆくことにある。出家の本来の意味は物理的に家を捨てることではなく、五官六根に翻弄されぬ調和された心と、それにもとづく日常生活の行為の中にあるということを知ってほしい。
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地 震

マグニチュード5以上の地震が、東海地方を襲うかもしれないとの噂がひろまっているようだ。また、伊豆半島もその危険性が増大しているともいわれ、地震不安がまたもや太平洋岸ベルト地帯一帯を蔽っているようである。
そこで、地震はあるのか、もしあるとすればその対策をと誰しも思う。気象庁のある退職者は、関東以西はいつでも地震が起こり得るとして、地震の少ない東北地方に隠棲してしまったようだ。関東はこわくて仕方がないというのだ。地震のない土地に行けば、老後は安心して生活できるということのようだが、この人には病気の心配はないらしい。ただただ地震だけがこわいらしい。地震がくる前に心臓発作で倒れるなど夢にも考えないらしい。
地震はなぜ起きるのか、それは大地も生きているからである。人間の体内には血管が縦横に走っている。そして、絶えず血液が流れている。大地の下もまた血管が無数に走り、火山に見られる何千度に熱せられた溶岩が、地表のはるか下を流れている。火山はこの溶岩が地表に現れたものだが、なぜ火山活動がおこるかである。それは地上の圧力が地下に加わり、いわば血管を圧迫するためである。地震もまた、地上の圧カによって血管が収縮するため、それをハネ返そうとしておこるものだ。
では地上の圧力とはなにかである。それは人間の心の在り方にかかっている。地表をとりまく人間の生活意識が大地に圧力をかけている。この圧力は、人間一人一人の偽我(自己保存)によって作られるものだ。つまり、地震や火山を生み出すエネルギーを地下にたくわえているのである。だから、一定の時期がくると、もとに戻ろうとして揺れ動く。こういっても人は信じないであろう。現代科学はさまざまな見方で地震や火山をとらえようとしているが、物理現象の背後には、常に人間の意識が強力に働いているということを理解するようになれば、万象の姿がハッキリととらえられることができるだろう。
ちなみに月や火星に大地震や火山活動がおこっているだろうか。月や火星も地球と同じように何千度に熱せられた溶岩が活動しているのだ。しかし、大地震もなければ火山の大爆発もおこっていない。地表はいたって平静そのものであり、平和であろう。地球だけが常にさわがしく、さまざまな災害をくりかえしている。
中国大陸は日本と異なり、地震はめったにおこらない。それが各地で頻発した。被害も大く、犠牲者も相当にあった。動物の動きで地震を事前にキャッチし、避難したというが、そうだろうか。政情不安の火に油をそそがないための工作だったようだ。 
アトランティス大陸は火山の噴火と大地震で海底に沈んだ。ポンペイの町も同じである。また、その昔に栄えたエジプト、メソポタミアの文明も、洪水、大地震、火山の降灰によって埋没している。当時の文明の手がかりは、地下から発掘した建物、青銅、土器、石板、壁画によってしのぶことができよう。
いずれにせよ地震は地上の人びとの想念行為によるのである。地震や火山を防ぐにはどうするか。その手がかりをつかむには、大地震がおきたその時代の人びとの社会生活を知ることが理解を早めるカギとなろう。いたずらに地震を恐れ、転居しても地震は追いかけてくるだろう。
posted by ゆき at 19:18 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

法とは正しい秩序をいう。
法という文字は、氵(さんずい)に去ると書く。氵(さんずい)は水だから、法とは、水が去るということになる。
水は低きに流れ、高きに流れることはない。低きに流れることによって、自然の理に適い、自然の秩序にしたがっている。
水が去るとは、水自体が自然の条理に適って生きているので、水の姿は、自然の秩序を表わしている、ということになる。
漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物や事象を実によく表わしているといえよう。
さて水は低きに流れることによって、常に清らかだ。山水の流れは、冷たく、清い。自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く、澄んでいる。もし、この水が流れを止め、一ヵ所にとどまるとすれば、水質はよごれ、飲み水の用にさえたたなくなってくる。
人の心も、これと同じなのだ。物に執着し、とらわれが多くなると、心は汚れ、ものの用に役立たなくなってくる。ねたみ、ぐち、そしり、いかり、足ることの知らぬ欲望は、執着の表われである。執着があるから、心にこだわりができ、苦しみをつくる。
法とは、心に執着をもたぬことだ。とらわれをつくらぬことである。
ここで注意したいことがある。それは、とらわれについてである。知識が先行すると、とらわれという意味を曲解し、好き勝手なことをしても、とらわれなければよいというふうに考えるようだ。ここでいうとらわれとは、物に執着しないことであるが、同時にそれは、法にしたがうことを意味している。ところが人によって、文字の観念に酔い、とらわれなければ、したい放題、やりたい放題してもよい、という風に考えてしまう。とんでもないことである。
法とは秩序だ。循環の秩序をいっている。秩序とは調和であり、中道の心であり、慈悲と愛の神の心をよりどころにして、維持されている。身勝手なことをすれば、相手が迷惑をするだろう。その迷惑の波動は、身勝手な人にハネ返ってこよう。本人はとらわれがないといっても、身勝手な波動は発信者に返ってくるのが法の掟でもあるからだ。他力的信仰者は、えてしてこういう考えになり勝ちである。よくよく自戒しなければならない。
正法は自力である。その自力も我欲をもとにした自力ではない。八正道という反省をもとにした自力行であることを胆に銘じてほしい。
posted by ゆき at 19:17 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

魔の跳梁

いつの時代でもそうだが、法が世に伝えられ、広がってくると、その法を潰そうとする魔が跳梁する。さまざまな噂を流し、中傷や批難が、あたかも真実のようなひびきをもって、人びとの心を撹乱する。その戦術は外部からくるものもあれば、撹乱を意図して内部から突き上げてくるものもある。彼らにとって、法は大敵なのである。  
法が広がると、なぜこうした魔が競い立つのであろう。以前にも触れたが、それは彼らの地上での生活の場を失うからならだ。闘争、破壊、独占、増上慢、権勢欲、怒り――こうした想念は魔の働きによる。魔は混乱を喜び、破壊を望む想念であるため  に法とは根本的に相入れないのである。
光と影の相関関係は、この物質界ではさけられぬ現象の一つかも知れない。ある物体に光を当てると、光の当った部分は明るくなるが、その反対側は影が映る。光が強いほど影も色濃く映る。
人の心もこれと同じように、光が当った部分は明るく、一方は暗い影を落す。そうしてその影の部分が大きいと、現象が起こり、憑依しているあの世の生物や地獄霊が浮き出てくる。五官にほんろうされた人の心は、こうして影の部分が大きく、常に不安と迷いの生活を送っている。
しかしその心も、法という中道の神理にめざめ、内在せる神性を求めつづけるならば、心は透明になり、天上からの光を吸収し、影の部分は消え、光に満たされるのだ。つまり、明暗の物質界から脱皮し、明のみの心となるのである。
法に対する真の自覚は、この時、はじめて生まれ、人は悟りの法悦にひたることができる。
人間の偽我が生み出した魔の世界は、法の中では成立しない。そこで、手をかえ品をかえて、人の心に食い入り、心の中に巣をつくろうとする。
法の歴史をみてもわかる通り、二千五百有余年前のブッタの時代も魔が跳梁した。その前のエジプ時代もそうであったし、アトランティスのときも魔が跋扈した。この時は、多くの天使が犠牲となり、肉体の生命をちぢめた。しかし、その反作用がやが
て起こって、魔に加担した者はことごとく、海底の藻屑となった。
正法はその名の通り、正しい法をいう。正しい法とは自然の摂理をいい、慈悲と愛の神の意思を指す。噂や中傷を耳にしても、心を動かしてはならない。まず己れの正しい心に問い、判断を下すことだ、人の口車に乗り、自分を失わないようにしたいものである。
posted by ゆき at 19:00 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

罪障消滅

蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取ることは自然の摂理であり、この摂理は人為的に変えることはできない。正法はこうした自然の原則をもとに循環されて行くので、私たちの生活もまたこれから外れることはないのである。
ところが信仰が他力的となり、さまざまな宗教が派生してくると、きまって先祖供養が罪障消滅の理由づけになったり、ひどいものになると、教祖が信者の罪障を肩代わりして救ってくれるというのまであるようだ。これはいったいどういうことなのだろう。
人の業をかぶる、人の罪障を背負うということが人間の魂において可能なのかどうか。おそらく、そういう宗教家は、人間の本質を知らないばかりか、自然の仕組みというものを認識していないために、そのように考えるのではあるまいか。
人間の心――魂は、それぞれ小宇宙をつくっている。天を仰いで大宇宙の広さを感ずるのは、大宇宙の広さを知っているからであり、大宇宙に感応できる心があるから、そう思うのである。また、大宇宙の広さを理解できるのは、自分という存在があるからであり、自分という存在がなければ、大宇宙さえ認めることができないではないか。これを換言すれば宇宙は自分であり、生きているのは自分しか本来ないのである。
こうみてくると、蒔いた種は刈り取るということが理解され、一方において、人の業をかぶる、人の罪を背負うということが、いかに、人間の本性から逸脱しているかが納得されよう。
もっとも、人の心は以心伝心といって、他に伝わって行き、人の悲しみが自分の苦しみにつながる場合もある。あるいは、人の罪を背負って犠牲を払うこともあろう。
ところが、人の悲しみや罪を背負ったとしても、やっぱり、肩代わりはできないものなのだ。人に罪をきせても、悲しみを他に移しても、本人の心は少しも休まらないばかりか、すべてはもともと自分という宇宙の中のできごとなので、自分で処理しなければならないからだ。
人の業をかぶって病気をするとすれば、戦争を職業とする世の将軍たちや反対派の憎しみを常にうけている為政者は、みんな半病人になって野たれ死にする筈である。ところが現実はそうではなく、彼らはいたって元気である。
こうみてくると業はかぶるのではなく、自分がつくるものである。信者の業を教祖が背負い、そのため重病に陥り、信者が安心立命するなどということが、いかに真実から離れているかがわかろう。
騙されてはいけない。自分を救う者は自分しかいないことを――。
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原 罪

人類の祖先は旧約聖書に象徴的に描かれている。
エデンの園でアダム(男)とエバ(女)が神の保護のもとに楽しい日々を送る。そのうち、神の楽園に蛇が現われ、エバに禁断の木の実を食べよという。エバは好奇心にさそわれ、蛇のささやきをきいてしまう。禁断の実を口にしたエバは、その実をアダムにもすすめる。アダムは神の怒りを恐れ、食べまいとするが、エバのすすめで、彼までもそれを食べてしまう。
二人は禁断の実を食べると、今まで経験もしない自分を意識する。二人がそれぞれ自分を意識するいとまもなく、神の怒りが始まる。エデンの園に雷がとどろき、二人は楽園にとどまることができず、ついに楽園を追われ、流浪の旅がはじまる。
人間の原罪は、こうして伝えられた。そののち、イエスが出て、その原罪をあがな贖うことになり、贖いの象徴が十字架となる。
さて、人間には、アダムとエバにみられるように、もともと原罪というものがついてまわるものかどうか。イエスが十字架で贖ったとすれば、のちの世の人々に平和と安らぎが訪れてこなければならないはず。ところが、事実は戦乱と混乱のくりかえしであり、罪の意識は止むことを知らない。
エデンの園とはなにかといえば、それは実在界であり、かつての地上天国を指す。禁断の実とは、肉体にまつわる想念であり、自己本位の意識である。蛇は執念、執着の動物であり、体をくねらせ、左右に波形をつくらないと前に進めない。つまり、前進の波形は運動を表わす。それゆえ、蛇は執念の波動、運動を意味するのである。
エデンの園は神の国である。そこに、どうして蛇がおり、禁断の実があったのだろう、すべては象徴的に語られている。
すなわち、人が自己本位(自我意識)に陥ると、その意識の波動の渦に巻きこまれ、なかなか、そこから抜け出すことができない。これがカルマの循環である。カルマの循環は蛇の波形であり、執念、執着の波動に陥ると、真実が不明となり、なにが善で、なにが悪か、人間の目的すら見当がつかなくなってくる。
原罪とは、五官にまつわる六根であり、煩悩だ。これを断ち切るには、祈るだけでは断ち切れない、正道に照らした生活行為しかないのである。八正道を規準にした毎日の正しい反省の生活、反省後の努力の生活、心を正定にした調和の生活。自己保存の悪の思いは、悪としてかえってくる。悪の循環、運動から解放されるには、悪を思わないこと、原罪の種を蒔かないことである。
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己心の魔

魔についてはたびたびふれてきた。それは、正法が流布されてくると、きまって魔が跳梁し、表面に現われてくるからである。なぜ現われるかというと、光(法灯)が強くなれば、陰(暗黒)の部分も鮮明になるからである。
ある物体に光を当てたとする。するとその光が強くなると陰の部分も黒く映り、光が弱まれば陰も不鮮明になってこよう。人の心もこれと同じ理屈で、光が強く当ると、
その陰影も大きく描かれる。心がもし、その陰影に傾斜して行くと、陰影に巣を食う魔が暴れ出し、さまざまな現象がおこってくる。
こういうと、人は、魔が働くとは光が強烈なのだから、魔という光の反対現象は、人より偉いのだと早合点しがちである。しかし、これは間違いである。人間は誰しも、こうした光と陰を合わせ持っているので、心いかんでは誰にも働く。
学生運動の内ゲバをみればこの点は明らかであろう。魔はしょせん、偽我の産物であり、悪のエネルギーなので、念の作用が強い者ほど強く働くということだ。
善といい、悪といっても、すべては想念によって引き起こされる。つまり、心の在り方だ。その心の在り方が、念のエネルギーの強弱によって、形の上に現象化されてくる。
人の心は天国と地獄とに通じている。これを別な言葉でいうと、心は自由だということである。どちらにも通ずる。地獄の不調和な心の働きや行為をすれば地獄に、天国を思えば天国に、しかし、一方通行で地獄のみに通じ、天国に通じることが少ないと心は不自由になる。天国に通じてこそ、私たちの心は明るく、正しく、生きられる。偽我は地獄に、善我は天国にである。
しかし、この両面をさらに超えると、真我の境涯に達し、人の心は真の自由を得ることになる。仏教でいう如来の境地である。ここに至ると、魔に己れの心をゆだねることはない、魔に悩まされることもない。それはカルマの緊縛を離れるからである。 
心がカルマに揺れる間は、魔は常に背中合わせについてまわる。つまり、光にたいする陰である。真我に至ると、陰があるようで陰はない。
肉体があるようで肉体はない。肉体とは、心を光とすれば陰のようなもので、肉体に心がほんろうされることはないので、光があっても陰はないということになろう。ところが通常は、光と陰がついてまわる。そして、偽我の心の中には魔は常に伏在するということになる。これを別な言葉でいうと、こしん己心のま魔という。己の心の魔である。  
魔の世界は、いつもいうように、怒り、憎しみ、そねみ、足ることを知らぬ欲望、愚痴、怠楕、増上慢などに通じており、ことに怒り、憎しみ、増上慢に心が揺れてくると、魔は、ただちに働き出す。自戒しなければならない。
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憑依と霊道

最近、異言を語る者があると、ちょいちょい耳にする。しかし正しい異言と、そうでない異言があることを知ってほしい。そこで、ここで霊道と憑依現象についてふれておきたい。
霊道とは心が調和され、守護・指導霊と同通したときにのみ使われるもので、憑依現象とは区別したい。霊道と憑依は全く別な次元のもので、同じ異言を語るといっても内容がまるでちがうことを知って欲しい。
霊道は心が調和され潜在意識が開かれた時におこる。潜在意識は自分自身の意識であり、己れの意識だから当然過去世で経験し学んだことが表面意識に流れてくる。潜在意識が流れてくれば今生で学ばないことでも理解され、さまざまな智慧があふれてくる。                                            
守護・指導霊はこうした潜在意識の中に存在している。異言(過去世の言葉)は守護・指導霊の働きによって行われる。したがって、霊道現象による異言は、自分自身の過去世の記憶がひもと紐解かれたときにおこり、別人格の憑依によるそれではないのである。
霊道者を霊視すると後光が出ている。霊道者の心の高低によってその後光の輝きも大きさも異なる。普通の人が霊道者を評価する場合はその人の日常生活をみることである。
アラハンという霊道者は怒りや憎しみ、増上慢や欲望にほんろうされることがない。日常生活は極めて常識的であり、その霊道を使って人に恐怖感を与えたり、おごり高ぶることはしない。霊道は心の安らぎがなければ開けないからだ。心は明るく、愛念をもとにしている。
霊道をひらきながら心を動かす者も中にはあるであろう。そうした場合は守護・指導霊は語らない。語る場合は悪魔か憑依霊と思えばよい。
霊道があるなしにかかわらず、いちばん大事なことは、現在のその人の思念と行為であり、その人が法に適って生活しているかどうかが大切である。これを規準にすれば真の霊道か、憑依かが判別できよう。
憑依は自分の意識ではない。もちろん自分の現在の意識が憑依者を呼ぶので、その人の生活行為もチグハグになってくる。憑依霊にはさまざまなものがいて、外人もおれば蛇もいる。外人が憑依すればあたかも過去世の言葉のように異言となって語り出すだろう。
もっとも意識が通じないものは憑依することはないのでこれなどは特異な例といえようが、しかし最近こうした例が多くなっているので注意が肝要だ。
憑依は執着の念によるもので、危険このうえもない。霊道と憑依を見分けるには、その人の想念行為が現実的に法に適っているかどうかであることを、繰り返し強調したい。
posted by ゆき at 18:58 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

精神病

拙著『悪霊』のT・U部が世に出て、さまざまな反響を与えたようだが、この種の病気、つまりノイローゼ、精神病は憑依霊を除いたからといって、パッとよくなる、一夜にして恢復するというものではない。憑依霊は、自分が呼びこむのであり、したがって呼びこまない心に変わらないかぎり、病気は、またもとに戻ってしまうからだ。 
拙著をよく読んでもらえばこの点はよく理解できるはずだし、大事なことは、この場合、当事者よりも周囲の人たちの愛情が欠かせない要素をなしているということだ。 
病気の原因は本人にある。が、しかし、その遠因は、まず十人が十人、子どものときに、すでに病気の芽を宿している。つまり、家庭環境なり、周囲の状況にあったといえる。本人をはじめ、その周囲が、ものを正しく見る、中道にそった生活をしていれば、不調和な病気にならなかったはずだし、子供の性格に暗さをしのびこませることもなかったであろう。
子どもに毒を食うなといっても、いう方が無理であり、毒を与えない家庭生活がなにより大事なわけである。成人し、自らをかえりみるようになって、はじめて、ものの道理が理解でき、人の運命がなにによって運ばれ、また執着の苦悩、心の重要さがわかってくるといえよう。
病気の原因は本人にあるのであるが、しかし、ノイローゼ、精神病の場合は、子どものときに病気の芽を宿し、知らず知らずのうちにそれがふくらみ、長い間のうちに、暗い性格をつくり上げてきているので、まず、その内向的性格を修正しなければならない。それには、本人の自覚も大事だが、周囲の環境、家庭生活がなによりも大事になってくる。
患者が出た家庭は、本人だけにそれを望まず、一家全員でその原因を究明する心構えが必要であろう。そうして、家族全員が息者の治療に当ると同時に、家族成員一人一人が明るい生活になり得るよう努力する必要がある。
患者によって、家と病院の間を往復するというのも、患者の家庭が旧態依然の生活であり、患者が帰っても患者を受け入れる体制ができておらず、いわば、厄介者扱いになっているからである。
この際、はっきりいいたいことは、こうした家庭にあっては、一人一人が明るい生活になり得るよう正道の生活に切りかえ、患者を正常に戻す努力をしてもらいたいということである。
posted by ゆき at 18:57 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

言葉と魔

八正道の中に「正語」というのがある。
これは冷静、誠実、愛の心をもって語れということなのだ。心を歪んだままにしておいて語れば、その言葉は、人の心を動揺させ、混乱のモトになるからである。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」と言うと、水は、水と空とに分けられた。
これは旧約聖書に出てくる創世記の冒頭のくだりである。
天地創造は、神のこうした言葉によって完成された。
これは何を意味するかといえば、言葉は神であり、言葉は生きており、言葉は、ものを創造する力を持っていることをいうのである。
人の中傷をしたとする。すると、第三者はその中傷に心を動かされ、中傷されている人を色メガネで見るようになろう。しかも、人の口は、それこそ、自由に語られるので、言葉は生き物として、人の心を動揺させ、人から人へ中傷が伝えられると、混乱は、一層深くなってゆく。
善悪にかかわらず、言葉は、それ自体、生き物として生き、ものを形造って行く。   
憎悪の言葉、中傷の言葉、怒り、愚痴、さまざまな悪の言葉、すなわち、人心を混乱に導く言葉は、神がつくられたこの地上を、悪の毒で汚すことになる。
悪の言葉を語るそのときは、悪魔がかたわらにいて、その人をそそのかしている。
過日、関西での研修会の折に、悪魔に心を乱された人がいた。一部の人びとは、その人の言葉を信じ、心が揺れた。
悪魔に乱されたその人は、わずかばかりの霊力や自分の能力を過信し、増上慢になっていた。そのため、本来の自分を見失い、自分は真実を語っているかのような錯覚に陥り、苦悩をつくった。幸い、大事に至らず、本人も、そして、その周囲も、平静を取り戻すことができたが、私たちの周囲には、たえず魔の波動が送られ、極めて巧妙なうちに私たちの心の中にすべりこんでくる。そうして、言葉を通して、人の心を
混乱に陥れる。
忘れてはならない。私たちが平常心を失い、心が不安になり、人を憎んだり、気が滅入ったりしたときは、心を落ち着かせ、平常心に戻るまで、みだりに語ってはならない。言葉は、それ自体、生き物として、人の心を動かし、人びとの行動を規制するからである。
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天の心を

人が集まり、行動が組織的になってくると、その組織や人の行動が気になり出す。そうして、肝心かなめの法がどこかへ行ってしまう傾向になりやすい。
人の噂や中傷に気をとられ、その噂や中傷に心をゆだねると、もはや、法を学ぶ者とはいえなくなってくる。なんとなれば、法を学ぶ者は、いつどんな場合でも、法を尺度に、生活の中に実践して行く者であるからだ。
集団生活や組織というものは、この地上界に生きて行くうえで欠かせないものだが、さりとて、これにウェイトがかかると、自分を失いがちとなる。
なぜなら、自分の周囲に現われる諸現象は、自分の心を育む材料にすぎないからだ。これはどんなに世の中が進み、調和された姿が現われたとしても、その基本的態度を変えてはならないものである。
調和の姿というものは、これが完全というものは本来望み得ないものだし、調和が進めば進むほど、より高度の調和が私たちを待ちうけているからだ。
また、この宇宙を認識し得る意識はなにかというと、ほかならぬ各人の意識であり、心である。そうして、その宇宙の存在を理解できるのも各人の魂だ。
これをもっと平易に説明すると、私たちは眠っている時は、鼻をつままれても、体をつつかれてもわからない。めざめてはじめて、自分の存在を認識し、昨日のこと、今日のことが理解できる。
つまり、自分という意識があって宇宙の存在が理解できる。これを逆にいうと、宇宙は自分がなければ存在しない。さまざまな諸現象は自分があるからそれをとらえることができる。
こうみてくると、自分以外の諸現象は、自分の心を育む材料であり、その材料の中に、自分を没入させると、自分を失ってくることになろう。
自己という存在は、大自然という中道の法のなかにこそ生きているものなのだ。人の噂や組織に気をとられ、それに心をふり回される愚を、法を学ぶ者は犯してはならない。つまり、私たちの大事な対象は、人や組織ではなく、法なのである。
ある人はこんな名言を吐いている。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」これは平等をいっているようだが、もう一歩進めて、人(この場合偽我)を相手とせず、天の心を心とするとき、人の心は大きく広いものとなり、人を赦し、自己に厳しい法の実践者になってくるものである。
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合 掌

合掌について説明しよう。
合掌というのは中道の心を形の上に表わした姿である。合掌すると精神の統一がしやすいというのもその辺の事情を語っている。
まず、人間の肉体を見てほしい。胴を中心に、手足も、耳も、鼻の穴も、目も、左右二つついている。これがもし一つだけだったらどうであろう。不便このうえもなく、バランスを保つのに非常に骨が折れよう。卑近な例が眼である。眼にゴミが入り、眼
帯をしたときのことを思い出してほしい。片目だと遠近感がつかめず疲労も激しく、不便このうえもない。口は一つしかないが、これはどうかと疑問をいだく向きがあるかも知れない。口は一つだが、出口が下の方にある。これも揃っている。つまり、私たちの肉体は胴を中心にして、ちゃんとバランスされるようにつくられている。
右にも、左にも片寄らず、中道に沿っているのが人間の肉体であり、小宇宙を形造っている。宇宙は中道という意思の下にバランスを保っている。
合掌は、こうした精神的、肉体的構造の集約した姿を意味し、中道の象徴といえよう。
また合掌は大自然――神への祈りでもあり、合掌によって、神と人、人と人との精神的交流がはかられる。神とは中道の意思であり、人と人との円滑な交流も片寄らない中道の心しかないはずであるからだ。
ここで手のひら療法についていうと、通常は合掌し、精神を統一してから行うと、治療効果は一層顕著になろう。理由は前述の意味合いから容易に理解できよう。
手のひら療法の物理的説明をすると、肉体はまず細胞から成り立っている。病気は細胞の新陳代謝が十分に行われないためにおこるもので、細胞活動が不活発なのだ。
病気を治すには細胞を活発にすればよい。
つまり、手のひらから発散する生体エネルギーを患部に充電するのだ。手のひら療法はこうしてその効果をあげるわけだが、生体エネルギーの発散の度合いは、人によって個人差がある。それは前述の中道の精神にそった生活をしているかどうかによっ
て、ちがってくる。
合掌はこうした意義を持っているが、形だけのそれではなんにもならない。要は、中道の精神を生かした生活がなによりも先決なのである。
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価値の基準

日本を含めて、いまや全世界は不況とインフレに悩んでいる。いかにしてこの危機から脱出するかとさまざまな研究、討論がなされているが、物に価値の基準をおくかぎり、経済の歯車はあらぬ方へと進んでいくであろう。現在の危機意識は経済を主体
としたものの考え方に原因があり、小手先の改革ではその反動はいっそう大きなものとなるであろう。
いったいこうした状況をつくり出したものはなんであろうか。ほかならぬエゴと欲望とその体制にある。私たちをとりまく生活環境は欲望の発展を基礎として、個人の利益追求が社会の発展につながるという思想を背景に組み立てられている。
この三本の柱はうまくかみ合い数量文明はたしかに開花をみせた。物が豊富に出まわり、金さえ出せばなんでも求めることができるようになったが、私たちに必要なパイ(資源)は無限ではなくて有限であり、そのパイを奪い合えばつぎに来るものは死しかない。かくて生産をセーブし消費を節約せざるを得なくなった。
少なくとも科学や技術が今後、形を変えて、飛躍的な転換を遂げぬかぎり、私たちの未来は先が見えてきたといえる。しかし、一度ふくらんだ生産機構を縮少することはむずかしい。不況とインフレ、危機意識が全世界を蔽いはじめたのはこのためである。
私たちの住む世界を称して相対界ともいう。天と地、昼と夜、男と女、善と悪というようにすべてが相対的にできあがっている。この相対的な仕組みを一方に片寄らせたならばどうなるであろうか。相対の世界は崩壊するしかない。現在の数量文明は、心より物に、質より量にそのウエイトがかかっている。つまり価値の尺度が物の多寡で計られているのだ。これは間違いだと思いながらも人びとの心は物に執着を寄せている。危機がくるのは当然である。
相対界の価値の基準は調和である。調和とは一方に偏しない生き方を指し、相対の世界をいわば止揚しながらより高次の調和へと高めていく。現実的には愛の行為である。助け合い、補い合い、許し合える連帯の中に調和の理念が生かされてくるのだ。
物に偏して生み出されてきた現在の危機を乗りきるには、全世界が協調互恵の精神を呼び起こし、人類はみな兄弟である、という神の子の自分に還ることである。エゴと足ることを知らぬ欲望を捨てぬかぎり、危機の輪は広がってゆくであろう。
posted by ゆき at 18:55 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

安らぎ

心の安らぎは正法の悟道の境地から生まれてくる。どうして悟道の境地から生まれるかというと、生死を超えているからである。生老病死の迷いを離れているから心が平安になる。具体的にいうと、死後の自分の行くべき場所を知っている。人間の目的が何であるかわかっている。心と肉体は別々であることも理解している。自分の意思によって、自分の肉体をコントロールすることもできる。同時に、自然現象はどんな作用でどう運ばれているか、そして時として、その自然現象を調整することも可能である。こうなると、心が安らいでない方がおかしいといえよう。
なかでも、いちばん大事なことは生老病死の迷いから離れることだ。この関門を通ると、心は安らぎ、不退転の心が備わってくる。すると、諸々の智慧が湧き出してくる。必要があれば、その智慧はさまざまな角度から湧現してくる。そうして、森羅万
象の姿が神の意思の下に動いていることが、はっきりと理解できる。
心の中のパラミタは、こうしてさまざまな形でその扉をひらいてくれる。
しかし、肉体を持ち、この地上で生活する以上は、努力と修行をやめることはできない。たとえ心は安らいでいても、正道という日々の生活から離れることはできないものだ。それが肉体を持つ者の天命であり、修行でもあるからだ。
生老病死の迷いから解脱しても、人間としての修行は休むことなく続いて行くのが、人間である。大自然が休みなく運動しているのと似ている。
心の安らぎは、執着の心からは決して得られない。どんなに力んでも、知識が豊富でも得られない。心の安らぎは、思念と行為を通してしか得られないものであるからだ。法という調和の規範をかなめにして、実践することによって、はじめて、物事の道理がわかり、価値ある真実が理解できてくる。
人によっては仕事をしているときが、いちばん安らいでいるという。仕事が精神を統一させ、心を安定にさせるからだ。
だが、老いてその仕事が青年の手に移ると、その人はその途端に心が不安定になってこよう。仕事は生きがいと安心を与えるが、仕事そのものは心の真の支えから、ま
だほど遠いものであるからだ。
私たちは、もう一歩進めて、仕事の中の自分ではなく、仕事も自分もすべてを含めて、神理をよりどころとした安らぎであって欲しいのである。生老病死の迷いと執着は、そうした中から、はっきりと超えることができ、不退転の心の安らぎは、そこから生じてくるものである。
posted by ゆき at 18:55 | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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